万死に値するという言葉の軽さ

”万死に値する“という言葉は狂的である。説明するまでもなく、一度殺すだけでは駄目で、一万回殺さなければ充分では無いという意味である。(唐の柳宗元が万死という表現を使っているが、これは必ず死んでしまうような境遇の事であった。) 国のリーダーが使用するのであれば、それを聞いた思慮の浅い若者が彼を(一回だけ)殺したとしても、”それで良い。“と言い切れる覚悟が無ければいけない。勿論、安倍元首相が、原発事故当時に管総理に対してこの言葉を発した時には、その様な覚悟はなかったはずであり、彼の軽薄さを嘆いたのであるのが、今度は野田首相が自民党の経済対策に関して”万死に値する。“という言葉を使用したのには驚いた。

彼は大変真面目で意志力の強い人だとは思うが、残念ながら能力的に欠けるところのある人だと思う。安倍も野田も50歳代の分別さかりのはずである。

本来、この言葉は自分自身に使用する時のみ許されるべきである。過去の自分の行為に対する万感を込めた慙愧の叫びとしてである。竹下首相が、先妻や青木秘書が自殺したことについて、自身を“万死に値する。”と発言した事を、我々は批判する事はできない。悲劇であった。シジュホスの神話や賽の河原を思い起こす。

それにくらべて現首相、元首相の軽薄さはどうしたことか。近頃の中高年(50歳代)の日本語に対する感度の無さは驚くべきものがある。これが戦後日本の教育の欠陥の結果だとすると、彼らに教科書を正す資格は無いだろう。彼らが首相とか首相経験者(そして次期首相?)であること自体、誠に嘆かわしいことであり、まずはドナルドキーンさんに日本語を教えてもらうところから、勉強をやりなおした方が良いのではないですか?

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