7.談合や企業ぐるみの不祥事隠しは昔からの慣習である。

最近のテレビニュースで良く取り上げられている事件を列挙してみると、談合、いじめ、組織的な不祥事隠し、そしてかなりの確率で関係者の自殺が続く。その度にマスコミのコメンテータは管理の不備や当事者の責任を追及して、困ったものだ、と尤もなコメントをつけて次のニュースに続いてゆくが、実際には問題の本質には触れられない ― 本当の問題は、同じコメントが2009年でも1998年でも通用してしまうことだ。今騒がれている事件の多くは、人や組織は変れども10年前と同じ種類のものである。それでは、そのような悪習が10年程前から始まったのかというと、そうでは無い。それまでは、少なくとも半世紀にわたって問題として認識されずに続いてきたことなのだ。時代が変ってようやく問題視されてきたこと自体はむしろ喜ぶべきかもしれないが、私たちが問題の本質から目をそらしているので何時までたっても解決出来ないでいる。なぜならば、談合にせよ、いじめにせよ、不祥事隠しにせよ、ある意味では日本人が非常に大切にしている良い部分を守ろうとするために起こっているものだからである。日本人の長所とかかる問題は表裏一体なのだ。

それぞれの問題について考えてみたい。談合は、業界内で競争相手であっても協調しながら仲良くやってゆこうという精神からきている。仲間同士では良いことだが、買い手からみれば騙されて高いものをつかまされるのだから良いはずは無い。官製談合では買い手が率先して高い買物をしているのだが、買い手は役所なので自分達の腹は痛まない。国民がその分高い税金を払わされる。昔は経団連のお偉いさんまでが、秩序ある競争にはある程度はメーカー間の話し合いは必要だと言っていたぐらいで、恐らくどの業界でも日常のことのように行われてきた。業界内での秩序にとって不可欠とまではいかなくても、必要悪として許容されてきた。真のリーダになるには清濁あわせ飲む必要がある”とか、“社会というのは学校とは違う”と言われていたのは、このようなことを認めないと一人前になれないとの社会認識があったからだ。最近になって、かかる問題で逮捕される中間管理層の人々はむしろ可哀想だ。社会通念が変化したのに彼らの属しているグループでは気がつくのが遅かったとか、今更止められない事情(貸し借りなどの約束や先輩からの申し送り等)があったのだろう。マスコミが知らなかったとは言わせない。昔の経済部の記者は何も記事にしなかったが、もし談合が頻繁に行われていたことに気がつかなかったとすれば、余程無能だ。彼らは良い人達(?)だから(仁義を守って)書かなかったのだ。現在、経済界のトップにいる人間達にとって期待される倫理的行為はかかる過去の問題を包み隠さず話すことである。もっとも恥ずべきは、昔自分たちが関わったことを無かったことのように振る舞い、現在罪を着せられた中間管理層を見捨てることではないか。悪党にも仁義はあるべきだ。

いじめは卑しい行為だが、日本人の均質を愛する性情と関係がある。いじめが社会問題として取り上げられたのは25年程前からだが、その当時は日本製品の品質の良さが世界中で絶賛されていた。“いじめがある限り、日本製品の均一性は保たれる。”と冗談を言っていたのを思い出す。チームワークや協調性を強調しすぎると、個性の強い人を排除しようとの気持ちが働く。賢者であれば話し合いでかかる問題を回避するが、そうでないと多くの人間が協力しあって異分子を排除しようとする。昔は番長のような存在があからさまに乱暴を振るったりしたが、今は皆が平等になって苛めるほうの個人も迫力が無くなったので、逆に苛めが陰湿なものになったのかもしれない。しかも昔であれば苛められっ子も家族の元に戻れば傷を癒すことも出来たが、今は核家族化が進んで、子供の時から孤独になってしまっているので、問題が深刻化していることもあろう。

不祥事隠しは、今まで述べた2つよりも更に日本的かもしれない。恥を知る精神が集団への忠誠と悪いかたちで結びついたと言うべきだろうか。子供の頃の出来事で詳細は良く思い出せないが、どこかの小学校で事故が起こって死亡者が出たか何かであったが、回りの人が事故を隠そうとして必死だった様子が強烈に記憶に残っている。そんな時の日本人は少し変だった。理屈とかは通ぜず何か異論をはさむことはまさにタブーであった。 グループが悪事に関与しておらず事件の被害者であっても、少しでも新聞やニュースで報道されることを極端に恐れた。それが自分たちの所属する会社の不祥事だったりすると更に大変だ。何か問題が起こるとそれを隠そうとする。隠すこと自体が犯罪行為になる。それが表沙汰になった時トップは知らないと言う。トップが関与していると組織全体の責任になるので中間管理層の人間が罪をかぶる。ひどい場合はその人が罪をかぶって自殺したりする。自殺しなくても退職に追い込まれたりする。以前ならば、会社はこっそり本人や家族を面倒をみたが、今は首にしておいて困ったものだと知らんぷりをする。。。。。

それでは談合やいじめや不祥事隠しについてどのように対処すればよいのだろうか。まずは、本質的な問題が存在していると認めることである。談合や不祥事隠しの問題は、これだけ世間を騒がせてはいるが、ニュースになっているのは警察やマスコミが表沙汰にした一部のみであるはずだ。日常茶飯事に行われている、あるいは一歩譲って、行われていたという事実を各界のリーダが認めることである。大企業の経営者が、自分の会社はやっていなかったとしても、周りで行われてきたことに気がつかないのであれば、それは世間しらずと言われても仕方あるまい。官僚にせよ新聞記者にせよ政治家にせよ皆同じである。問題が表沙汰になったものしか存在しないとの前提で物事に対処をしたのでは何時まで経っても根本的な解決は出来ない。 勿論、今までやってきたことには頬かむりをして、談合等の行為をこっそり中止して恰も何も無かったように振舞うことでも事態は改善するだろう。しかしながら、そういうやり方は何処かに問題を残すことになる。いっその事、過去にやってきた不祥事隠しとか談合は堂々と無罪放免にして、その代わり今でもその様なことをやっている会社や団体には厳罰でのぞんではどうか。かかる対策を取ることによって日本人全員がこの問題について考える機会が与えられると思う。是非とも国家のリーダには過去に起こったことを正直に話してほしい。経済人の誰もが、談合問題について責任を持った発言をしないのは真に情けない。

事実を認めたところで、では具体的にどの様な解決策があるのだろうか。 法律を変えるという選択肢が無いのならば、日本人の考え方が変らなければいけない。グループ内のルールよりも国のルールが尊重されるという法治国家として当然のことを再確認する。但し何でも法律に従えば良いと言える程簡単なものでもない。自分がやくざ組織にいたと仮定して、親分を警察に売り飛ばすような奴は許せないだろうし、企業が談合に参加している場合その秘密をへらへらと他社に話すような人間は友人にはしたくない。会社内で談合や不祥事に関わる会社員は皆良い人なのである。又やくざで親分を裏切るような人間や会社の仲間を密告する様な人は、それが個人的な損得勘定が理由であれば、悪い奴なのである。しかしながら倫理的な理由で行ったことであれば正当化される。会社等の小さな集団のルールと日本国の法律との板ばさみになって悩みぬいた末に事実を公表する人がいれば私は拍手を送りたい。国家や家庭についてでは無く営利を求めている企業についてのことである。あてに出来ない集団のために自分自身を犠牲にするのは馬鹿げている。倫理的にも損得勘定でも割りに合わないことだ。 

同じく大切なのは個人主義の徹底である。国家やある団体が大切だというのは、畢竟そこに所属している人々が大切だということだ。個々の人間を無視しては国の栄光も団体の利益も何の意味もない。時に組織のトップが持ち出す身勝手な要求に屈しないように個人が強くならなければいけない。勿論、個々の人間は自由になる権利を持つが、同時に他人の自由を尊重するためには自分自身の行動にもある程度の制限が加えられなければならない。この考えを発展させてゆけば集団への帰属意識も大変に血の通ったものになると思う。そこで、多くの人に夏目漱石の“私の個人主義”を読んでほしい。その中で彼は、自己を本意とすることの意義を述べた後で、次のことに言及している。“第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。 第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。”夏目漱石は、明治維新後の日本について大変懐疑的であった。1912年にこの講義を行った時には、彼の言っていることが日本人に理解され且実行されるとは思っていなかっただろう。あれから100年近くたって日本人も変ってきた。今であれば、もう少しの努力で彼の言葉のとおりのことを我々は実現できるのでは無いだろうか。それが出来てこそ現在の日本が抱えている問題も解決すると思う。100年後にようやく夏目漱石が望んだ姿に少しではあるが近づいてきたのかもしれない。

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